トンボ鉛筆100年史 page 23/98

トンボ鉛筆100年史

このページは トンボ鉛筆100年史 の電子ブックに掲載されている23ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
トンボ鉛筆100年史

内国勧業博覧会開場御式の図(国立国会図書館蔵)があった。はじめに鉛筆の製造技術を日本に伝えたのは、1873年、政府伝習生としてウィーンで開催された万国博覧会に派遣された井口直樹と藤山種広だった。井口は木工加工機械などの生産設備を、藤山は芯の技術を調査・研究し、民間に伝授したのである。翌年の1874年には、日本初の鉛筆工場が興る。井口、藤山の両名から教えを受けた小池卯八郎が東京・銀座に、輸入鉛筆を試料として独学で鉛筆製造法を確立した河原徳右衛門が小石川に、相前後して鉛筆製造業を開業した。1877年、小池は「第1回内国勧業博覧会」に教育の器具として鉛筆を出展。河原は、1881年の「第2回内国勧業博覧会」にて有功賞牌二等を受けた。しかし、のちに両者とも廃業する。背景には、1881年に起きた「明治14年の政変」があった。維新から始まった殖産興業によるインフレから、「松方財政」と呼ばれた極端なデフレ政策に急転換したことにより、多くの中小企業が倒産したのだった。小池工場と河原工場も、不況の影響で行き詰まった。杉江鉦三郎は、多くの優れた技術者を輩出した河原徳右衛門のもとで鉛筆製造法を学び、河原工場が廃業した2年後の1884年、東京市下谷区竹町(現東京都台東区台東)に「蜻蛉社」を興すことになる。明治も半ばとなる1886年には小学校令が新たに公布され、高等小学校では英語が選択科目に加わるなど、鉛筆需要は急速に高まっていた。しかし、その多くは輸入に頼っていたことから、文房具流通は国産鉛筆を待望した。杉江は1890年に開催された「第3回内国勧業博覧会」で早くも二等有功賞を受けるまでの鉛筆をつくり、以後、栄誉を重ねる。杉江鉦三郎が「蜻蛉」に託した思い杉江鉦三郎(左)と小川作太郎(右)トンボと鉛筆を結んだ最初の人である杉江鉦三郎は、佐竹藩の祐筆(武家の秘書役を担う文官)だった。維新前夜まで、勝ち虫と伝わる縁起のよい「蜻蛉」が刻印された武具を守り続けた。また、祐筆という立場から、西洋の科学技術や文化文明に明るく、いずれ、大きく時代が変わることを予23トンボ鉛筆100年史