トンボ鉛筆100年史 page 21/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

せんぶひん領地政策のための宣撫品として利用された。日本軍の勢力が拡大するのに伴って、民間企業の誘致がさかんになると、大切な軍需品となっていた鉛筆でも国外進出の話が持ち上がった。1942年、当社と真崎大和鉛筆、日本鉛筆の3社が協同で「大東亜鉛筆」を設立、朝鮮・大田市に工場を建設する。2年後の1943年、トンボ鉛筆は単独でマレーシアに鉛筆工場を建設し、春之助の次男、浩平(1921~1987)が支配人に就く。工場は150人の現地雇用を創出し、ゴム園中心の農村地帯に近代的な機械生産設備を備えた工場を根づかせたのだった。戦時下の創立30周年、そして八郎の出征1943年、小川春之助商店の開業から30年目を迎え、春之助は数え59歳になっていた。記念式典は、内々でささやかに行われ、従業員たちからは春之助・とわ夫妻の胸像が贈られた。このころ、春之助は本社のある柳橋2丁目の町会長に就任している。多くの出征兵士を見送り、戦火から町会を守りながら、鉛筆増産という銃後の生活に尽くした。春之助の長男、八郎は、1938年からの約2年間の出征に続き、1944年春、神奈川県座間の陸軍病院に衛生兵として二度目の召集を受ける。27歳の青年専務として、実質的に事業を切り盛りしていた八郎の召集は、事業に大きな痛手だった。八郎がもたらした希望の光1945年、3月10日の東京大空襲により、柳橋のトンボ鉛筆商事株式会社本社は焼失。続く4月13日の空襲で、王子の株式会社トンボ鉛筆製作所の工場は1棟の倉庫を残して、すべて焼き尽くされた。打撃はあまりにも決定的だった。会社の解散を思いつめる春之助を励まし、工場再建へ希望の光を照らし続けたのは、座間から任務の合間を縫っては駆けつける八郎であった。八郎という精神的な支柱を得た春之助は解散を思いとどまった。トンボ鉛筆は、工場焼失に伴って働く場を失った従業員らを手厚く処遇した。そして、焼けただれた機械設備を修復し、工場復興に取りかかる。TOSHIMA FACTORYは、月産3000グロス(43万2000本)を生産する工場として、焦土のなかからよみがえったのだった。困難に遭遇して決して後戻りしないトンボ鉛筆の精神が、戦後の新時代を拓いていく。公定価格の「8000番」公定価格の「8800番」HBも「中庸」に変更21トンボ鉛筆100年史