トンボ鉛筆100年史 page 13/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

鉛筆ゴルフ型セット興福会の会合(昭和初期)東日本橋の料亭「生稲」前店」(現ライオン事務器)の“若旦那”、福井正太郎氏が大阪より来訪、ただちに取引が始まった。ここから、春之助の銘柄鉛筆は関西でも広く販売されることになる。その後、福井商店を中心としたメーカーの会である「興福会」に加盟し、文房具製造事業者として大きな信用を得ることになった。同会の主なメンバーは、「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」の考案者・早川徳次氏、ゼブラ・ペンの石川徳松氏、開明墨汁の田口精爾氏など。パイロット萬年筆の創始者・並木良輔氏も、その後、加わっている。初荷と戦後不況──大正の光と影1918年は、小川春之助商店にとって、喜びの年明けとなった。1月2日、開業以来、初めての行事「初荷」が行われる。この行事は、新年の初商いの荷を美しく飾って送り出し、お得意先に挨拶をしながら練り歩くめでたい行事で、威勢のよさと事業規模を示すものであった。父、作太郎の鉛筆工場(旧駒込坂下町)を出発した30台もの大八車は、「初荷」と染め抜かれた紅白ののぼりをはためかせながら、上野、浅草の電車道(路面電車の走る道)を練り歩いた。開業から5年目の快挙であった。しかし、世情はしだいに厳しさを増していった。第一次世界大戦の終結により、深刻な戦後恐慌が襲ったのである。鉛筆製造業も例外ではなかった。180カ所にものぼっていた鉛筆工場は、1920年に20~30カ所にまで激減し、問屋の倒産も相次いだ。小川春之助商店は、内需を重視し、お客様本位の鉛筆の企画・製造に主力を置いてきたため、大事には至らず、内部留保で恐慌を乗り切っている。戦後不況から学んだ知恵──良質な鉛筆づくりを志す長引く不況のなかで、春之助は、時勢を逆手にとった、三つの投資を決意する。一つは、店舗の拡張だった。1920年、柳橋の店に連なる1棟3軒を買い取り、新たな本拠地とした。二つ目は、銘柄鉛筆に刻印してきた「H.O.P.」を登録商標とし、小川春之助商店の鉛筆のトレードマークとしたことである。三つ目が、「品質の追求」だった。国内経済の萎縮によって、意匠を凝らした銘柄鉛筆の売れ行きが鈍り、福井商店から「常時均等に売れる品を」との助言を受けた春之助は、筆記具の普遍的な魅力とは何かを追求する。こうして、「第一に良質であること」をこれからの事業理念として導き出したのである。そして、春之助は高い品質の鉛筆を製造する新工場の構想をあたためはじめる。戦後恐慌から学び取った知恵であった。Souvenir of TokyoFunny FaceREPORTER 22513トンボ鉛筆100年史